津軽三味線は、地元の新潟で、9歳から初代竹山先生(以降、竹山先生)の弟子の竹栄先生に高校3年生まで師事しました。進路を考える時期になり、実家(割烹料理店)を継ぐ気もなかったので、何となく三味線で身を立てたいと考えていました。ところが、竹栄先生は、趣味としての三味線しか教えたことがなく、プロの育て方はわからない。なので「ダメ元で(青森の)竹山先生に頼んでみよう」ということになりました。ですが、当然ながらそっけなく断られ、その後も竹栄先生が再三お願いをするも取り付く島もない。そこで一計を案じた竹栄先生、布団一式を予め竹山先生のお宅に送り、その後、竹栄会(門下生の演奏会)のゲストとして新潟に来られた竹山先生を青森に送る際、そのまま私を付いて行かせようとする強硬手段に出ました。そうなると、先生同士の「帰れ」「帰さない」の問答が続くこと1時間、最後は(竹山先生の)奥さんの「父ちゃん、おいてやればいいんでねえか」の一声で決まりです。今思えば、幼少で半失明し、職業選択の自由もないなかで、ボサマ(※1)として生きるために三味線をしてきた竹山先生が、何一つ不自由の無い私に「やる必要ない」として断り続けたのは当然だと思います。ですので、今考えると、あのくらいの強硬策が最善の策だったのかなと。当時1989年。初代高橋竹山79歳。竹童19歳。
(※1)ボサマ・・・主に津軽や南部地方で門付け(人家の門口に立って芸能を見せ、報酬を受ける芸能)して生活していた盲人男性のこと。
弟子入りの直後は、竹山先生の手術などもあったので、稽古もできず、病院の送迎や家の手伝いなどをしていました。竹山先生もそれを見て思う所があったのか、退院したその日から稽古を付けてくれるようになりました。ただ、「三味線で身を立てることとは別。教えるだけ」とは良く言われました。その後、姉弟子の高橋竹与さん(現:二代目高橋竹山)が私の将来を心配して(プロとして自立できるよう)前座での出演機会を作ってくれるようになりました。竹与さんには、入場料をいただくお客様の前で責任を持って弾くことの大切さを教わりました。
先生の指導法は、例えるとすれば『長嶋茂雄さん(笑)』。多分、どのようにして自分ができているのか分からなかったと思います…。だって出来ちゃうんだからって。でも、決して尻を叩くとか、ここを直せ、とは言いませんでした。「自分ではどう思ってんだ?」と聞くので、「こう思ってます」って答えると「うん、それでいいんでねえか」と返される。なので、一言で言うと『学べない』。当時は、何を習えば良いかすらわかりませんでした。また、うまく出来ない時には「おめえ、(成田)雲竹(※2)の唄、聴いてんだか?」「雲竹の唄には、全部正解が詰まってんだ」。これは、雲竹がどこで息するか、どの位伸ばすか、どの間で入ってくるか。それ聴いて独奏すればいいんだ、という意味ですね。それで「聴いてます」って答えると「いいや、やんなるまで聴いてねえべな」って。ただ気持ち良くて、好きで聴くのとは違う。いやになるまで聴かなければ、自分のものにはならない、と。なので、よく「三味線は耳の学問だ」と言われました。今でも竹山先生の新たな音源が見つかると、演奏を聴いて、気付かされることは多いですね。何しろ、竹山先生は、好奇心が旺盛で、貪欲。ジャズをはじめ、ほかの音楽ジャンルを決して拒絶しませんでした。コラボレーションこそなかったにせよ、その吸収力はすごかったです。きっかけとしては、初めて2,000名の前で独奏した際、その大歓声を聴いて「まだまだ、さらに勉強しなければ」という思いを強くし、以降は、民族音楽を含め、あらゆる世界中の音楽を聴いて、自分よりすごい人はまだまだいる、と感じていたようです。
(※2)成田雲竹(なりた うんちく)・・・津軽民謡の父と呼ばれ、津軽を中心とした東北民謡の第一人者。高橋竹山をはじめて多くの弟子を育成した。長年に亘り竹山を伴奏者とし、ともに津軽民謡の普及に尽くした。竹山の芸名は雲竹の命名による。
初代 高橋竹山(たかはし ちくざん 1910-1998)
明治43年(1910)6月、青森県生まれ。幼いころ麻疹をこじらせ半ば失明。近在のボサマから三味線と唄を習って東北近県を門付けして歩く。戦後は「津軽民謡の神様」と言われた成田雲竹の伴奏者として各地を興行、一地方の芸であった津軽三味線を全国に広めた第一人者。北島三郎が歌った『風雪ながれ旅』のモデル。平成10年(1998)2月5日、喉頭ガンのため死去。
―三線-
三線は、沖縄の若手の演奏者のイベントに竹山先生の推薦で出演した際に、沖縄の演奏家や三線の職人さんなどと知り合って、その交流の中で始まりました。実は三線は唄って弾くことがセットですけど、私は唄が歌えないので、インストゥルメンタルのみです。竹山先生からは、「おめぇは、節回んねぇからやめたほうがいい」って言われました(笑)。
-胡弓-
胡弓は、高橋治先生(直木賞作家・風の盆恋歌ほか著で知られる)が、私を演奏でお声がけいただいた時に、おわら(富山県民謡おわら保存会)の方々も来られていて、その前から胡弓の音色に魅せられていたこともあり、ご一緒する中で「おわら風の盆(※3)」に来たら?、という社交辞令に乗せられて、実際に行ったところ、「あんた、ホントに来たん?」って言われちゃって…。そこから毎年「風の盆」の前に本格的に現地の先生に習いに通って今は、「風の盆」の正式な胡弓弾きとして認められて、毎年参加しています(2020年は中止)。このように自然な流れで三線、胡弓を始めた感じです。
(※3)おわら風の盆・・富山県八尾町で毎年9月1日~3日の3日間行われる民謡行事。三味線、胡弓、太鼓の音に合わせて涼しげな揃いの浴衣と編笠を被った踊り手が、町それぞれの個性をもって町を踊り歩く。
演奏で沖縄を訪れる都度、沖縄や三線の歴史を教えてくれた知人の紹介で知りあいました。話をしてみると、彼は津軽三味線のことも良く知っていて、一方で私が沖縄音楽、三線を愛していたことが嬉しかったようで、お互いの音楽の話がすごく面白くて、それ以来、これまで何度も共演しています。かれこれ20年くらいの付き合いになります。
とにかく彼は即興ができるんです。私が仕掛けて何かやっても付いてきたり、合わせたり、楽譜がなくても出来てしまう。今回の演奏会は、曲目は決めていますけど、あえて伝えていない曲もあります(笑)。例えば「琉球哀歌」という曲は、何にでも当てはめることが出来るようにタイトルを付けているだけなので、その時々で曲が違います(笑)。 また、ある時は、「徹くんを困らせるコーナー」を勝手に作ります。私が弾いたイントロに瞬時に彼が合わせて唄います。そうしたら次に私が勝手に曲を変えるんです。ですので、普段彼のコンサートで歌われない曲も聴けます。こんな感じだから、終わったあとには「拷問だよね」ってよく言われます。でも、この曲は知らないだろう、と思ってマイナーな曲を選ぶんですが、それも彼は知ってるんです。おそらく沖縄に存在する曲で彼の知らない曲は無いのかもしれませんね。
2回の公演は、基本的には同じプログラムです。ただ、細かいところはその時のアドリブで違ってきます。内容としては、津軽三味線の世界、沖縄三線・沖縄音楽の世界、そしてコラボレーションの世界、この3つの世界を同じくらいのボリュームでお届けする予定です。ともかく、三線は津軽三味線のルーツで、三線なくして津軽三味線は存在しなかったわけです。なので、よくぞ残してくれた、よくぞ発展を遂げてくれたという思いで、それぞれの世界の魅力をきっちりとお楽しみいただけるような演奏会にしたいと思っています。まさに琉球音楽と津軽三味線の魂の響き合い、というのでしょうか、ぜひお楽しみください。 では会場でお会いしましょう!
<曲目>
渡りぞう~瀧落菅撹(わたりぞう~たちうとぅしすががち)、月ぬ美しゃ (つきぬかいしゃ)、琉球哀歌、風の盆、津軽あいや節、津軽じょんから節 ほか ※曲目は変更になる場合があります。