2006年の創設から隔年開催の野島 稔・よこすかピアノコンクールも今年で第7回、いつものようにゴールデンウイークの1週間に熱気のこもった若者たちの競演が繰り広げられた。応募総数95名のオーディ ション審査(CD演奏録音)を経て最終的に第1次予選に臨んだのは74名(女性40名、男性34名)。4月29日~5月1日の3日間にわたって課題曲であるショパンやリスト、ドビュッシー、ラフマニノフ、スクリャービン等のエチュードによって演奏技巧の精度を競う第1次予選が行われた。これを通過した25名(男性16名、女性9名)が、この野島 稔・よこすかコンクールの最大の特徴であるベートーヴェンのソナタ1曲全楽章演奏という、世界的に見ても極めて珍しい課題である第2次予選(5月2日、3日)に進んだ。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ15曲から任意に選んだ1曲を演奏することで、テクニックだけではなく作品の構成感や構築感の明晰性、さらには緩徐楽章の表情に現れる音楽性や感性まで問われることになる。そして、この第2次予選会は聴衆にとってはコンクールというより、コンサートとしてのベートーヴェン・ツィクルスを満喫する2日間となった。1日おいた5月5日の本選には8名(男性6名、女性2名)が進み、白熱した演奏が繰り広げられた。ひとり40分以内でプログラミングされた自由曲によるリサイタル形式での審査会は、すべてのコンテスタントが夢に描くピアニストとしての豊かな未来に向けての、まさに最初の一歩であり、心地よい緊張感のなかで審査会が続けられた。
野島 稔を審査委員長として、東 誠三、上野 真、梅津時比古、野平一郎の5名の審査委員による審査の結果、第1位に安並貴史(やすなみ たかし:東京音楽大学大学院後期博士課程1年)、第2位に伊舟城歩生(いばらき あゆむ:東京音楽大学3年)、第3位に山崎佑麻(やまさき ゆうま:東京音楽大学1年)が選ばれた。
第3位の山崎佑麻は演奏順で2番目に登場。バッハの「平均律クラヴィーア曲集」第2巻の「変ロ長調」の演奏から始め、スクリャービンのピアノ・ソナタ第2番「嬰ト短調」とプロコフィエフのピアノ・ソナタ第7番「変ロ長調」(戦争ソナタ)の3曲を弾いた。ピアノでバッハ作品を弾くことはとりわけコンクールでは精神的集中を要する。ロマン主義的表情に偏向させまいとする緊張がやや音楽から表情を奪っていた。しかし、対位法、フーガ様式による音楽構成を明確に浮かびあげていた。古典派、ロマン派を一気に飛び越えた19世紀末のスクリャービンのソナタでは「幻想ソナタ」の副題が示す性格を見事に彫琢。クライマックスの構築を意識した緩急強弱のコントラストも効果的であった。プロコフィエフではさらに強靭なタッチでピアノを鳴らし切り、重厚で強い音ながら弾性のあるマルカート、スタッカート突進するリズムの躍動と静寂が支配する暗い情景を見事に描き上げていた。
第2位の伊舟城歩生が本選トップバッターだった。ラフマニノフの「10の前奏曲集」作品23全曲を演奏。20世紀初頭前後のロシアのピアノ音楽ではプレリュード集がひとつの流行になっていたようだが、ショパンの作品28のような体系的なものではなく、むしろ、性格的小品連鎖と呼んでも良いような個性的小品が並んでいる。伊舟城は個々のプレリュードの特質をしっかりと捉えて、10曲を丁寧に弾き分けた。穏やかな表情の中に悲哀を感じさせる第1曲のラルゴ、 一転して第2曲はまさにロシアの民俗性に富んだ祝祭の爆発、繊細さとスケールの大きさを織り込んだ技巧が光っていた。第3曲以降もノクターン風の表情、 行進曲風の律動など緩急と強弱、そして短調と長調の響きの明るさまで感じさせる見事な表現で小品集としてのまとまりを見せた。
第7回コンクールの第1位に輝いたのは6番目に登場した安並貴史。本コンクール3度目の挑戦にして初の栄冠、安並が演奏したのはブラームスの「創作主題による変奏曲」作品21-1と「7つの幻想曲集」作品116、そしてドホナーニの「4つの狂詩曲」作品11より第3番「ハ長調」。博士課程に在籍し、エルンスト・ フォン・ドホナーニの作品研究をひとつのテーマにしている安並ならではの理にかなった選曲。ブラームス音楽の影響を強く受けながらも独自の技巧的表現様式を獲得したドホナーニのラプソディックな特質に光を充てたのはすばらしい。前半のブラームスでは変奏曲にやや単調な流れを感じもしたが、いかにもブラームスらしい響きの奥行の深さと精緻なテクスチャーを浮彫にした。幻想曲集ではブラームスの激しく荒々しい表現もみせ、強弱法(デュナーミク)と緩急法(アゴーギク)を巧みにコントロールし、聴き応えある音楽を作っていた。
授賞式後に本選に臨んだ8名が各審査委員に演奏評を求め、演奏評を求め、選曲とプログラミング及びその演奏表現について詳細なアドヴァイスを得る機会が設定されているのもこのコンクールの、聴衆からは見えない大きな特徴だ。ほとんどのコンテスタントがまだ大学に在籍中で、いわば学習・研究段階にある。豊かな演奏キャリアのある実力派ピアニストの審査委員からの話は、通常のレッスン等では得られない貴重な時間となっただろう。戦いを終えたコンテスタントたちは互いの健闘をたたえながら、一人ひとりが確かな手ごたえを得た満足な表情を見せていた。そして、懇親会場に用意された5つのテーブルに各審査委員が座り、コンテスタントたちは熱心に全審査委員から意見を求め、テーブルをめぐっていた。20分、30分と熱心な懇談が続き、入賞者3人だけでなく、8人全員が審査会以上に真剣でしかも積極的に意見を求める光景は、音楽に情熱を注ぐ若者たちの熱気に満ちた素晴らしく音楽的な時間であった。