記念すべき第1回コンクール(2006)の優勝以降、「第76回日本音楽コンクール(2007)」優勝、「第4回仙台国際音楽コンクール(2010)」第3位、そして「第62回マリア・カナルス・バルセロナ国際音楽演奏コンクール(2016・スペイン)」優勝など、輝かしいコンクール歴の佐藤さん。約5年に亘る海外での研鑽を終え、昨年7月に帰国されました。現在、国内外での演奏活動のほか、母校の東京音楽大学で後進の指導にもあたられるなど忙しい毎日を過ごされています。近況や留学先でのご経験を伺いました。
-振り返ってみて、「野島稔・よこすかピアノコンクール」は、ご自分にとってどのようなものでしたか?-
自分のキャリアには欠かせないものだったと思います。本選でリストのピアノ・ソナタ ロ短調を弾いた時、当時の自分が持っているものを出し尽くせた達成感がありました。それまでに演奏した中でも、とりわけあの時は良く弾けたという感触がありましたので、自信に繋がりました。実は、第1次予選もよく通過できたなという位、自分の中ではダメな演奏で、第2次予選の手ごたえも感じていませんでしたので、コンクールを通して着実に成長できたことは、今の自分の基盤になっていると思います。
-審査委員長の野島稔さんからの当時のアドバイスで印象に残っていることは?-
コンクール後、野島稔先生の門下生になってからですが、レッスンの時に「音を合わせる」ように言われました。これは音の出し方や指の使い方のことで、いわゆる響きの焦点、真芯を捉えるということだと思います。下の音、真ん中の音、上の音を同時に鳴らすときに、良い響きを作るために、指の圧力を調整します。3つの音を同等に出しても、綺麗な音はしませんので、3本の指の圧力を調整するという非常に細かい作業をします。結局、日本にいた時は、最後まできちんとそれを理解することはできませんでしたが、理解できたのはモスクワ音楽院に行ってからでした。それを野島先生に言ったら「いつも言ってただろう」と言われてしまいました(笑)。つまり、受け取る側がそのレベルに達していなかったということですね。そのほかにも「出したい音は、願えば出る」。そんなことがありえるのかとも当時思いましたが、それだけのコントロール力を持っている先生だからこそ、おっしゃったのだと思います。今でも野島先生は雲の上の存在ですね。
-コンクールの意義とコンクールに参加することについて、どうお考えですか?-
意義としては、まさに野島稔・よこすかピアノコンクールのキャッチコピーにあるように、『光り輝く才能を見出す』=『見出される』ことではないでしょうか。一生懸命努力して受賞した人は、その努力が間違っていなかったことを認識できるし、もしダメだったとしても審査委員の方からアドバイスをもらえるわけですから、それを修正してまた受ければ良いじゃないですか。僕なんて(優勝した)マリア・カナルスのコンクールを3回も受けていますから(笑)。やはり、コンクールは自分を成長させるために大事だと思います。
-東京音楽大学大学院を経てベルリン芸術大学、モスクワ音楽院で研鑽を積まれましたが、留学のきっかけは?-
師事する鷲見加寿子先生からも(留学は)経験しなければいけない、と言われていましたので、大学院を出たら留学とは思っていました。また、日本音楽コンクール(07年:第1位)や仙台国際音楽コンクール(10年:第3位)を終えたこともあり、次は浜松国際ピアノコンクール、ということになりますが、受けてダメだったら、横須賀も含めてこれまでのコンクールに傷がつく、という気持ちだったので、あとは外国しかないという感じでした。当初はイギリスのつもりでしたが、学費が高くて断念しました。そんな中、たまたまベルリンの知人が帰国にあたり、次の住人を探していることを聞きました。なので、家を見るついでにレッスンも見に行こう、という軽い感じで視察のためベルリンに行きましたら、家も先生も素晴らしく、ベルリン行きを即決しました。
-ベルリンでの生活はいかがでしたか?-
本当にいい街でした(約1年半)。何よりもベルリン・フィルの立見がたったの11ユーロ(約1,500円)!開場3時間前に並べばとりあえず買うことができたので、よく足を運びました。特にクラウディオ・アバド(14年死去)が指揮した最後のベルリン・フィルは素晴らしかったです。ただ、再演を前に亡くなり、とてもショックでした。あとは、サイモン・ラトル指揮など、世界の超一流のオーケストラを手ごろな値段で聴くことができました。つまり勉強ですね、日本ではまず考えられません。立見もないし、本当にありがたいと思いました。あと良かったのは、食べ物ですね、ビール煮なんて日本ではもったいなくてできませんが、ビールが安いので、遠慮なくできました。ビールの苦味がとてもいいですよね。
-ベルリンからモスクワに留学先を変更された経緯は?-
指導を受けていたエレナ・ラピツカヤ先生が亡くなられてしまったので、野島稔先生に相談してモスクワ音楽院のエリソ・ヴィルサラーゼ先生の下で3年半勉強しました。環境は、ベルリンに比べると悲惨でした。お湯が出なくなったり、ゴキブリが多かったり、マイナス30度だったりとか(笑)。でも色々なことで芯は鍛えられたと思います。また、寮のピアノは、弦が切れていたり、鍵盤の不具合など、ほぼ壊れていました。でも、不思議なことに向こうの学生はそれで練習して、音楽を作ることができるんです。楽器のコンディションが十分でなかったり、調律の具合によることもありますが、どんな環境下でも自分の表現ができることが大切だと思います。もちろん楽器に助けてもらうことで、新たな表現が生まれることも多々ありますが、それに頼りすぎると自分の基礎は鍛えられないと思います。どんな楽器でも自分の支配下に置くということですね。ただ、それを強制するつもりはありませんが、日本の大学は恵まれ過ぎだとも思います。
-ヴィルサラーゼ先生のレッスンはいかがでしたか?-
2月に入学しましたが、先生には、自分が日本で培ったもの全てを一瞬でペシャンコにされました(笑)。実は、ベルリンの時に、日本での演奏会もこなす中でスランプになっていました。ただこれまでのキャリアもありましたので、少なからずそのプライドやプレッシャーによる苦しみもあったと思いますが、先生はそれも含め、全て見抜いていたと思います。先生に相手にされない中、他のクラスの演奏を見ているうち、ある時彼らに共通する何か=メソードに気が付きました。それが自分を助けてくれたと思います。そして、修正を続けて練習するうち、夏休み前から先生のレッスンを受けられることになりました。 恐らく他の学生の伴奏などを通して、自分が治ってきているのを先生は見てくれていたと思います。その時に初めてスランプから抜けた感じがしました。ただ、そのためには、プライドから何から今までの全てを捨てる必要がありました。極端に言えばピアノをやり始めた一からのレベルです。そのため、色々変えてから1年位は、まともに弾くことはできませんでしたが、レッスンは受け続けることができました。荒療治でしたが、一番効果的だったと思います。
-演奏活動のほか、東京音楽大学で後進の指導もされています。気持ちの変化はありますか?-
昨年の9月からレッスンをしていますが、骨のある子がいっぱいいます。そのうち、野島稔・よこすかピアノコンクールに出場者を送り出せればいいなと思っています。とにかく、教えるにあたり、演奏の上でも生徒の模範として学生以上に努力をしなければならないと思っています。
-国内外の演奏会などお忙しいようですが?-
昨年は、40回以上の演奏会を行いました。準備に時間がかかってしまうので、自分でも良くないとわかっているのですが、同じプログラムの演奏会はしていません。選曲は、そろそろこの曲に取り掛かろうとか、この曲はもう少しおいておこう、など計画的に決めています。全然弾いていませんが、グラナドス(スペインの作曲家)は好きな作曲家で、ピアノ組曲「ゴィエスカス」は、何か記念の折に演奏してみたいと思っています。
-目標への取組みについてなど、モチベーションを維持するために心がけていることは何ですか?-
努力し続けるために、常に一歩先の目標を持つよう心掛けています。学生を終えたので、ここまできたら自分の経験と力を活かしていこうと思っています。いつまでも人に頼りすぎるとそこから何もできなくなってしまうので、自分の力で今後を切り拓く気持ちを持つことで、モチベーションを保っています。ただ、ピアニストは孤独です。自分と向きあって自分と戦うというのでしょうか、そういうものだと思います。そして、努力するために妥協はいけないと思うし、自分に容赦しない心の強さが必要だったりします。その先に行きたいならば、自分に厳しく、人には優しく(笑)です。
≪終わり≫